祭な話題

 

このページでは祭に関連するちょっといい話を紹介します。


郭巨山の胴幕4枚(前・右・左・後)

 

前と後ろの胴幕は織幅が118cmを超える広幅の錦織物をそのまま使用しています。左右側面の胴幕は2枚の錦織を縫合して仕立てています。 図様は欧風ですが芙蓉や菊花を茶色で織出して、東洋的な表情に作られています。


郭巨山の水引き幕

正面

 

殿舎の中で舞人の舞を見る貴人です。郭巨山は廿四孝に由来する山であることから、水引刺繍幕についても前「老菜子」の故事を表します。 

右側面

 

右方に殿舎があり3人の中国風人物を刺繍し、左方に2頭の白象がいて、その間に庭園があります。また、郭巨山は廿四孝に由来する山であることから水引刺繍幕についても「大舜」「漢文帝」の故事を表します。 

左側面

 

雪中で筍(タケノコ)を掘っていて、右の方には虎が出現し、それに驚いている人、また一人は樹上に登っている構図です。緋羅紗地に色糸で高ぬいをしています。また、郭巨山は廿四孝に由来する山であることから水引刺繍幕についても「孟宗」「揚香」の故事を表します。 


    刺繍された「祝賀叙文」
    刺繍された「祝賀叙文」

郭巨山(かっきょやま)の見送り幕 後在家町/下小唐崎町

 

平成15年度に旧見送り幕に倣って復元新調した幕です。

 

紺地緞子(どんす)に祝賀叙文と呼ばれる文字を刺繍して幕を製作しています。繍生地の紺地緞子裂(どんすきれ)二枚を中心で左右に継ぎ、そこに一行最大33文字26行の文章を絹糸で刺繍します。

 

文の内容は中国明代嘉靖期の福建省で、河川に泥が溜まって船着場が使えなくなった際に、陳 廬岡なる人物が類い希な計画と管理で河川の浚渫工事(しゅんせつこうじ)を1月足らずで成し遂げた業績を、官史(公務員)や人々が褒め称えた文章です。

 

町内では弘法大師の筆と伝承しますが、書風は中国の書家顔真卿に近いと言われます。


     天孫神社前を出発
     天孫神社前を出発

神功皇后山の胴幕類

 

前懸幕・左胴懸幕・右胴懸幕・後懸幕の4枚。緋羅紗地です。

昭和60年に旧幕「緋羅紗地胴幕」に倣って復元新調しました。本祭と宵宮の両日に懸けて用いられます。白色平織麻地の裏をつけます。


    多くの唐子が遊んでいます
    多くの唐子が遊んでいます

神功皇后山(じんぐうこうごうやま)の見送幕・猟師町

 

上部に、額を入れその中央に寿の変形文字を織出し、文字を中心にして左右に鳳凰が相向かい合います。一文字には散らし雲を織り出します。 その下の主部には50人ほどの唐子が様々な遊びをしている図です。一般に唐子遊びといわれています。

 

天馬に乗って天空をかけるもの、中国風屋内で字を書く者、魚釣、角力(すもう)、凧揚げ、目隠しをして遊ぶ者、琴、太鼓、笙(しょう=ふえ)などを持って集まり楽を奏でる者、碁をうつ者、玩具の馬にまたがっている者などがあります。

 

これに梅、牡丹、芭蕉などの植物を配し、右下部には白鳥らしきものが3羽池に泳いでいます。 製作は中国清代の17世紀から18世紀前半ごろと考えられます。

 

この見送幕は「紗」の地に刺繍を施したものです。唐子遊びの織物は綴れが多い中、比較的珍しいものだと思います。


アカガシの森見学・銘板取り付けに行ったメンバーは、「大津祭保存会」各ご町内の保存会メンバーまたは町内の代表者です。

孫が名板取り付けに参加してくれました。28本ほどの木に名板を取り付けました

名板は「大津祭曳山用保存木」(アカガシ)(No07)等の名前が書いてあり、バンドはバネのもので木が成長するに伸びて行く仕組みです。

アカガシは放置しておくと脇から枝木が出てくる為、間引き等の作業があり、現在は水源の森等の保全管理の人々が間引き作業を行って下さっていますが、大変な作業をして下さっていました。

 

今後は50年後をめどに曳山の材料として、車輪、長柄等に代わります。


               参加者の集合写真
               参加者の集合写真

奥びわ湖水源の森 大津祭保存会・上京町月宮殿山・奥村昌明

 

本日は大津祭保存会よりアカガシ育成事業及びアカガシの森見学会に行ってきました。場所は長浜市西浅井町山門と言う所です。

 

尾根の反対側は福井県という県境の南の斜面に群生しているアカガシの木に「大津祭保存会」という名板を約30カ所取り付けてきました。その木は今まで放置されていたため地域の「山門水源の森を次世代に引き継ぐ会」の人々があらかじめ真っすぐに育つように伐採をしてくださっていました。

 

アカガシは硬くて重たいため伐採といっても大変な作業と手間がかかります。今では約50年~60年という木ばかりで、曳山に使用する場合には後50年はかかると言うことで今回の参加者の中で一人だけが参加しているという説明があり一同はため息や笑い声での記念写真となりました。

 

木は意地悪で傾斜のきつい所に多く乱立しています。昔は炭の原料していたため暗い森になっていました。またアカガシは常緑広葉樹。日本の南部等温暖な地域に生育非常に硬く、弾性、耐久性に優れ、水湿に強い。かつては船や橋、山車などの構造材として広く用いられたが、近年は流通量が少なく、曳山の車輪等利用可能な大木の確保は極めて難しい状況にあるとの事でした。

 


       正面の前懸幕
       正面の前懸幕

西宮蛭子山の胴幕類・前懸幕

 

前懸幕「西遊記帰還図刺繍」(撮影2002年)

波上の仙人に供物を献じる構図です。

 

なお、元幕は江戸後期の作で、現幕は平成十三年に復元新調されています。また、一連の幕は「西遊記帰還図刺繍」という名のとおり、玄奘三蔵や孫悟 空、猪八戒、沙悟浄も描かれています。

 (写真:河合哲雄)

 

*大津曳山祭総合調査報告書 大津市教育委員会編・発行 平成27年 参照


       左側面の胴幕
       左側面の胴幕

西宮蛭子山の胴幕類・左側面

 

胴懸幕「西遊記帰還図刺繍」(撮影2005年)

左側面は、波の上を走る馬に巻物(織物)を乗せ、白鹿がこれを曳きます。車の前方にはふたりが珊瑚樹を捧げています。車には貴人らしい人が付き添うなどして行進する構図です。

 

なお、元幕は江戸後期の作で、現幕は平成十三年に復元新調されています。また、一連の幕は「西遊記帰還図刺繍」という名のとおり、玄奘三蔵や孫悟 空、猪八戒、沙悟浄も描かれています。

                       (写真:河合哲雄)


       右側面の胴幕
       右側面の胴幕

西宮蛭子山の胴幕類・右側面

 

胴懸幕「西遊記帰還図刺繍」(撮影2006年)

右側面は、波の上を先頭に貴人、翁、さし傘や旗をもった者、珊瑚樹を捧げる者、白馬に宝物を載せて馬を曳く者などが付き添って行進する構図となっています。

 

なお、元幕は江戸後期の作で、現幕は平成十三年に復元新調されています。また、一連の幕は「西遊記帰還図刺繍」という名のとおり、玄奘三蔵や孫悟 空、猪八戒、沙悟浄も描かれています。

 (写真:河合哲雄)

 


  平成11年に復元新調されました
  平成11年に復元新調されました

西宮蛭子山(にしのみやえびすやま)の見送幕

 

全面色糸刺繍です。上部に鳳凰に乗った仙人がいて、下部に6人の人物がいます。中国の故事を表現したものと思われます。

 

人物の顔や衣服には「高ぬい」をした部分があり、また使用した糸の色もよく、建物の床には銀糸を使い、人物、樹木、雲などモノとモノの間は*「より金糸」でうずめ、あたかも金地に彩画を描いたようです。縁ぎれは緋ラシャです。

 

上部には絹糸製の水色大総2連を垂下します。

(写真:河合哲雄)

 

漆などで金箔を和紙に貼り付け糸状に切ったものを平金糸(ひらきんし)・平箔(ひらはく)・箔糸(はくいと)などと言い、それ以外の糸を芯に金箔やフィルムなどを巻きつけたものを撚金糸(よりきんし)と言う。 ウィキペディア(オンライン百科事典)より

 

「大津祭総合調査報告書(合冊・改訂版)」大津市教育委員会 編 昭和56年3月

 


       左側面の胴幕
       左側面の胴幕

 湯立山の胴幕類 ・左側面

 

胴幕は緋ラシャ地に色糸で曳馬の図を刺繍。左側面は白黒斑毛と栗毛各一頭を刺繍しています。

(写真:河合哲雄)


       右側面の胴幕
       右側面の胴幕

 湯立山の胴幕類 ・右側面

 

胴幕は緋ラシャ地に色糸で曳馬の図を刺繍。右側面は白馬と栗毛各一頭を刺繍しています。

後部に「應挙筆 繍工柳糸軒」と刺繍していることから、應挙の下絵を柳糸軒という刺繍師が刺繍したものであることは明らかです。

(写真:河合哲雄)

 

 

 


       正面の前懸幕
       正面の前懸幕

 湯立山の胴幕類・前懸幕

 

胴幕は緋ラシャ地に色糸で曳馬の図を刺繍。正面は白馬一頭を刺繍しています。前幕と左右の胴幕は應挙(オウキョ)の下絵「神馬の図」に、著名な刺繍師である柳糸軒が刺繍したものです。平成13年から14年にかけて復元新調されました

(写真:河合哲雄)

 

 


     中国風の美女遊楽の図
     中国風の美女遊楽の図

湯立山(ゆたてやま)の見送り幕(本祭用)

 

画像の上側から順に見てみよう。

 

上部に2連の大房を飾りとしてかける。大房かけ金具、座金は大きく半円形菊花打ち出し造りで、この座金から出た腕の先端は菊半肉彫りです。

 

上部額内藍色地の中央に、雲にのった太陽と岩に牡丹を織出し、その左右には大きく鳳凰の円紋を色糸で織出します。鳳凰は相向い合い、それぞれ花の枝をくわえていますが、向かって左は阿(あ)、右は吽(うん)。

 <「阿吽」は二人の人が息を合わせ共同で活動する意味。例:阿吽の呼吸>

 

額の下には横一文字を織出し、一文字には5カ所に雲をちらします。

 

その下が本地となるが、構図は中国婦人を主体としたもので、上部雲中の中央に唐獅子に乗った唐子、その下方に山あり、岩あり、家などがあって、その間に岩上に硯を置き腰かけている婦人がいます。家の中には婦人が座しています。唐子と共に棹さして船遊びする婦人もいます。

唐子のうちには、たこあげ、魚釣り、角力(すもう)、弓引きなどしている者もいます。これに鹿、鶴などの動物、紅葉、牡丹、桃、梅、椿などの植物を配しています。

 

本地の下部に小房9連を飾りとしてかけます。下部の小房かけ金具、座金は*なな子打に、菊花とその葉を打ち出し造りに、座金から出た腕の先端菊花に造ります。

 

*平面度を必要とする製品加工の一種。星打ち加工とか、七子目ならし(ななこめならし)またはドットリングなどと呼びます>

 

尚、現用の見送幕は平成12年に復元新調した物です。旧幕は前回の補修の際(明治期か?)裏表を返して仕立ててあって、婦女の着物の袷が逆になったりしていたので、復元新調にあたっては元に戻したため、鳳凰日輪額の阿吽形は現在は逆になっています。また、見送りの金具類も幕と同時に新調してあります。(写真:河合哲雄)

 

 *「大津祭総合調査報告書(3)」(滋賀県民俗学会 編)昭和47年 引用

 


         右側面の胴幕
         右側面の胴幕

龍門滝山の胴幕類・右側面

 

中央に飛翔する孔雀、その左右に雉の様な鳥を配し、下方に獣類がいますが荒れているので明らかではありません。これらの刺繍した動物の間を牡丹や菊の刺繍で全面を充填します。この元幕は中国南部-マカオ辺りか-で織られた総刺繍幕です。(写真:河合哲雄)


         左側面の胴幕
         左側面の胴幕

龍門滝山の胴幕類 ・左側面

 

中央に孔雀のような鳥、その右に雉、その下方に唐獅子がおり、それらの刺繍した動物の間を全面牡丹唐草の刺繍で充填します。(写真:河合哲雄)


        正面の前掛
        正面の前掛

龍門滝山の胴幕類・前懸幕

 

両側面にほぼ似た構図で、中央に孔雀のような鳥、その左右に雉の様な鳥を配しそれらの間は牡丹唐草の刺繍で充填しています。なお現品は復元新調品。(写真:河合哲雄)


   本祭用の見送幕・トロイ落城の情景
   本祭用の見送幕・トロイ落城の情景

龍門滝山(りゅうもんたきやま)の見送り幕

 

本祭用の見送幕(みおくりまく)は、国の重要文化財指定の16世紀ベルギー製毛綴織で、緋ラシャのふちを付けます。本地は左方に鎧をまとった戦士など二人の人物がおり、中央に牛のような動物と四頭の鹿がいます。その下方には鳥もいます。

 

下部には胸をはだけた半裸体の女性が両手に水壷を抱いていて、川には三尾の魚が泳ぎ水鳥もいます。この女性の部分は、ふちぎれであったものを、ここにはめこんだのではないでしょうか。また中央よりやや下方にいる鳥も他の毛綴から抜き取って、ここにはめ込んだ様です。

 

しかしこの見送幕は詳細に見ますと、八つほどの色々の部分のきれを巧妙につなぎ合わせており、継ぎ目が破損して補修したところもありますが、各種の動物がこの画面にいることは、他の見送幕では見られないことです。

 

本地の周囲の縁と上部額を下部画面との区切れに入れた一文字には、エッグアンドターン文様を織出します。それはブリュッセル製毛綴織の特色のひとつです。一文字の上方額には、花束や鳥を織出しています。龍門滝山のこの毛綴見送幕には、金糸編みのひもを七宝つぎに編んだ羅編を装飾として懸けます。(写真:河合哲雄)

 

*「大津祭総合調査報告書(合冊・改訂版)」(大津市教育委員会 編)昭和53年 引用

 


     復元新調された前懸幕
     復元新調された前懸幕

猩々山の前懸幕

 

正面の絵柄は頭部を右にした横向きの竜一頭、上部に雲、下部に青海波を織出しています。損傷が甚だしく上部の雲には刺繍で補修したところがあります。竜体は剥落した部分が多く、下部の青海波も補修しています。

 

本地の左右と下部に緋(色)ラシャの縁ぎれを、上部には白地金襴の縁ぎれをつけています。竜二頭を円形にして並列した金襴で時代の古さを感じさせます。

 

最新の調査報告によると、左右の胴幕が日本製なのに対してこの前懸幕は中国清代のものとされています。なお、現在この幕は歴史博物館に寄託保管されており、本祭では平成9年製作された復元新調品を懸けています。復元新調品では、元幕の上部にあった「白地双龍団文様錦」部分は復元ではなく、類似の錦裂を用いているとのことです。(写真:河合哲雄)

 

*「大津祭総合調査報告書(合冊・改訂版)」(大津市教育委員会 編)昭和53年 引用

 


     復元新調された見送り幕
     復元新調された見送り幕

猩々山(しょうじょうやま)の見送り幕

 

画像の上側から順に見てみよう。

 

上の端5カ所に房掛け金具を打つ。房は浅葱色(あさぎいろ)の小房である。浅葱色とは、葱藍(たであい)で染めた薄い藍色のこと。<浅葱とは薄い葱 ねぎの葉に因ちなんだ色で、平安時代にはその名が見られる古くからの伝統色>。

 

上の端から50cmに幅6cmの横線状の一文字(「一」の字のようにまっすぐなこと)が入り、それから上を額とする。額の中央には雲に浮く太陽、その下には枝ボタン。左右には大きく鳳凰の円紋を色糸で織出する。

 

額下の一文字には繧繝(ウンゲン)彩色式の散雲を織出する。

 

本地は所謂(いわゆる)唐子遊びと呼ばれている構図。上部に「きりん」に乗るものをはじめとして、獅子舞、子とり遊び、屋内で弾琴するもの、秦楽、目隠しして鬼ごっこ・・・など80余人の唐子が屋内外にて各種遊びをしているところを織出ししたものである。

 

本地には幅3cmの金襴で縁取りをし、その外に更に緋ラシャの縁ぎれを付けている。

 

尚、現用の見送幕は平成13年に旧幕に倣って復元新調したものであり、旧幕は桜樹が描かれていることからも日本製の綴れであることが判明している。(写真:河合哲雄)

 

*「大津祭総合調査報告書(合冊・改訂版)」(大津市教育委員会 編)昭和53年 引用

 


      猩々山と福田さん
      猩々山と福田さん

祭は守るべき伝統

 

10月7日(土)の午後。宵宮の準備で忙しい中、猩々山(南保町)を訪ねた。今年の曳山巡行の「1番くじ」を引き当てた福田一さん(40)にお話を聞くためだ。この日は曳山の「宵宮曳き」、「宵宮」などの祭礼行事が多く、飾付けに忙しい中インタビューするには不向きな日であったが快諾を得た。

 

「随分若い曳山責任者のようですが?」「そうですね」。

お話によれば南保町(なんぽちょう)は曳山を出す山町としては家数が少なく現在8戸だという。福田さんは従前は囃子方責任者として従事し、現在は曳山責任者として活躍している。

 

そんな中9月16日の「くじ取り式」に臨み1番くじを引いた。14年ぶりという。「本籤取りはとても緊張しました。1番は嬉しさより重責を担うので、身の引き締まる思いというか」と、当時の気持ちを話す。

 

福田さんは生まれも育ちも地元。そのため祭との関係は古い。幼稚園児・小学生で鉦、中学・高校生で太鼓、そして大学生では笛を担当した。「これまでは祭を楽しむ姿勢でしたが、責任者となればそうはいきませんね」と笑う。これらは守るべき伝統だとの意識が育ったといいます。

 

また、こうした祭礼行事を通して長老をはじめ、多くの大人たちとの交流の中で、「お酒をたしなむことも覚えましたね」と笑う。「猩々山」に相応しいお話かも。

 

「思い入れが強い祭ですか?」

昨年、大津祭が国の重要無形民族文化財に指定された時の話ですが、曳山だけが祭ではないんですね。曳山町の住民の方々と、祭礼行事の準備から終わりまで、街が一体となって取り組む事こそが大切だと・・・。

 

このインタビューの合間にも、準備中の作業者にテキパキと指示を与える福田さん。厳しさの中にも笑顔を絶やさない人柄が好印象だ。

 

いよいよ明日は「本祭」。“コンチキチン”の祭囃子が心地よく響き、祭はクライマックスを迎える。


      道検分参加者の皆さん
      道検分参加者の皆さん

最後の道検分(4回目)

 

10月4日(水)の午後2時。当番町・副当番町・曳山連盟の中野敬さんなど計7名が天孫神社門前に集合した。今日は最後の道検分(4回目)だ。

 

「今日はどんな感じですかね」と私。「最終の確認だから、順調にいけば早めに終わるでしょう」と当番町・稲岡さんの声。今回も検尺車・検尺棒を使いながら曳山の巡行路を歩いて点検した。

 

そもそも検尺車・検尺棒で測る高さ制限の基準は何か。

 

それは参加する13基の曳山中で一番高い「西行桜狸山」(さいぎょうざくらたぬきやま)が基準だ。つまり屋根の上に立ち日和見する狸から、地上までの高さ6.5mをベースにしている。「ああ、なるほどね」と私は納得する。

 

ところでボランティア活動として参加する私の役割は、道路中央部を歩きながら検分する作業者の「安全確保」だ。車の往来に注意を払い、赤い誘導棒を振り作業者へ注意を促す。

 

「何をしているのですか?」。道端で仕事中の人が声をかけてきた。事情を説明すると「ああ、そうなんですね」と状況が理解できた様子。地元住民ではない方には疑問の光景だろう。

 

こうして全ての作業を終え65件の「注意箇所」の全てがOKとなった。

 

「皆さん、お疲れ様でした」。当番町・三國さんの挨拶を合図に、浜通りのコンビニ店前で解散となった。いよいよ祭は宵山(10/7)と本祭(10/8)を迎える。


      月宮殿山の山建て
      月宮殿山の山建て

山建てと曳初め

 

大津祭の「山建て」が10月1日(日)、大津市内の各曳山町であった。山建ては解体収納されている山を組み立てることをいい、曳山巡行がある本祭の1週間前の日曜日に行われる。

 

午前8時。棟梁の東森一弘さん(70)と7名の山方衆によって町家の前の路上で作業が始まった。他町では山建てを手伝わないところも見られる様だが、この月宮殿山(上京町)では多くの関係者や若い衆などが出て手伝っている。

 

まず玉(車輪)や山の部材を町家の奥にある山蔵から運び出す。山の上層部や人形などの部材は町家の2階へ、それ以外は町家の前の路上へと仕分けながら運ぶ。車台の上に胴枠が組まれ要所はくぎを使わず縄でくくる。

 

上半分が化粧柱になっている4本の柱を固定し2層目の床を張る。これ以上の高さになると、町家の2階から突き出た桟橋から部材が山へ渡される。こうして、やぐら、屋根の順で組み上げていく。

 

そして、1層目の外側には高欄をめぐらし大体できあがる。その後各部材の飾り付けをして、青と黒の鯨幕を巻いた上に胴幕をかける。今年は町内の事情で、2層用の胴幕に本祭用の水引をつけて曳初めを行った。また、曳初めでは人形も乗せない。

 

作業は予定通り正午あたりに終了した。「う~ん。手際よく進むものだな」と納得。時折、ガイドに案内された観光客の集団が、組み立て作業付近を通過する。

 

午後には町内の人に無事に山が建ったことを披露すると共に、組み上がりの確認を兼ねた「曳初め」もあり、8日の本祭を前にお囃子の音色が町に響き渡った。

尚、この曳初めでは一般の人も曳き手として参加することも可能なので、皆さんの参加を期待したい。

 

今後は7日の「宵宮飾り」「宵宮曳き」「人形飾り」なども予定していて忙しさはまだまだ続く。


     国道161号線(電車通り)
     国道161号線(電車通り)

3回目の道検分

 

9月23日(土)の午前10時。今年の当番町・龍門滝山(太間町)の稲岡隆司さん、三國昌克さんをはじめ、曳山連盟の元田栄三理事長、そして各曳山責任者や曳山連盟関係者など計10名ほどが天孫神社門前に集合した。

 

前日まで雨が降り実施が心配されていたが、天気は回復して曇り空となった。きょうは3回目の道検分だ。

 

目的は前回曳山の高さより低かった電線などの高さや、道路の凹凸の改善状況をチェックすることだ。もちろん今回も検尺車・検尺棒を使いながら歩いて点検する。

 

実際に道検分しながら歩く訳だが、従前に比べて要改善の場所が明確になっている事もあり、作業はスムーズに進んだように思えた。ただ、大津駅前では開発事業も進んでいることもあり工事中の道路もある。その進捗が懸念される。

 

およそ3時間弱で作業は終了。調査結果をみると「電線等の高さ」では、注意箇所20件の全てでOK。「地上(道路)」では、注意箇所45件の内43件がOKとなった。

 

4回目の最終道検分は10月4日(水)に予定されている。


      天孫神社前に集合
      天孫神社前に集合

2回目の道検分

 

9月1日(金)の午後。まだ暑い日が続いている中、大津祭の曳山責任者会により2回目の道検分が行われた。

 

調査を担当するのは今年の当番町・龍門滝山(太間町)の稲岡隆司さんをはじめ、関係業者(関西電力、NTT、ZTV)、そして曳山連盟を加えた計15名ほどだ。

 

午後2時に祭巡行のスタート地点である天孫神社正門前に集合し、稲岡さんよりそれぞれ参加者の紹介と役割分担が説明された。この作業の目的は、本祭巡行に支障がないように、電線などの高さや道路の凹凸チェックを行うことだ。

 

既に1回目の道検分は先月に実施済みで、その結果として発見された頭上の電線等や地上における注意箇所を、もう一度全ての巡行路において、検尺車・検尺棒を使いながら歩いて点検することになる。

 

この作業においては、曳山の高さ相当の検尺棒を取り付けた「検尺車」を、道路中央付近で操作するため、通行するバスや自動車などの接触事故などから作業員の身を守る警護役も必要だ。そこで、私はボランティア活動として警護役で参加した。

 

点検作業はおよそ3時間で終了。それぞれの立場で今日の確認事項を持ち帰り次回に備える。3回目は9月23日に「改修状況の確認」が予定されている。


      巡行する猩々山
      巡行する猩々山

猩々山(しょうじょうやま) 南保町

 

能の入門書などに紹介される猩々は、その名も「猩々」という赤い少年面に赤い頭、赤の装束と赤ずくめの格好で登場する。この曳山は能楽「猩々」に由来していて、からくり人形も同様な格好をしている。

 

では能楽「猩々」の概要を演能団体「銕仙会」のHPからみてみよう。

 

中国 楊子の里に住む酒売り・高風(ワキ)のもとに通っていた不思議な客は、水中に棲む酒好きの妖精・猩々であった。高風が猩々との約束に従って、酒を湛えて川のほとりで待っていると、水中から猩々の精(シテ)が現れ、酒に酔って浮かれつつ無邪気に舞い戯れる。猩々は、汲めども尽きぬ酒の壺を高風に与え、尽きせぬ世を祝福するのだった。

 

ここで紹介される高風は親孝行な人で、彼の正直な心を賞で汲めども尽きない酒壷を手にする。また、ある日「揚子町に出て酒を売れ、必ず富貴な身となる」という不思議な夢を見て、この教えに従い商いをしたところしだいに富貴となるという話だ。

 

所望では前に長柄の杓を持って立っている高風が、囃子に合わせて向きを変え、酒壷から酒を汲み、後ろに立っている猩々の持つ大杯に注ぐ。猩々はそれを口に当てて飲み、左手に持った扇で顔をかくす。扇を除けると酒がまわって真っ赤に顔が変っている。

 

この変化がハイライトの見せ場だが、種明かしをすれば顔が180度回転して赤い顔になる仕組みだ。この間の囃子は太鼓と笛だけの「所望」の曲だ。

 

余談ではあるがハエの種類に「ショウジョウバエ(猩猩蠅)」がいる。調べるとショウジョウバエの和名は、代表的な種が赤い目を持つことや酒に好んで集まることから、顔の赤い酒飲みの妖怪「猩々」にちなんで名付けられたという。

 

猩々山の話がショウジョウバエの話へと脱線したが、こうした一口話 (ひとくちばなし) 的な話題を事前に知ることも、大津祭の楽しみ方かも知れないと思う。

 

参照:演能団体「銕仙会」HPより

http://www.tessen.org/about

(写真:河合哲雄)


      巡行する殺生石山
      巡行する殺生石山

殺生石山(せっしょうせきざん) 柳町

 

妖艶な美女は、世界を揺るがす大妖怪の化身であった。巨石の中から現れた眼光凄まじい妖怪は、国家滅亡の危機をもたらした昔物語を始める…。ああ、こんな見出しを読むと無性に興味がかきたてられるようだ。

 

これは観世銕之丞家を中心とした演能団体「銕仙会(てっせんかい)」の曲目解説の導入部分だ。そしてその概要には次の様な説明書きがある。

 

曹洞宗の高僧である玄翁(げんのう・ワキ)が那須野を通りかかると、ある巨石の上で空飛ぶ鳥が落ちてしまうのを目撃する。そこへ里の女(シテ)が現れ、その石は殺生石といって近づく者の命を奪うのだと言い、いにしえ女官に化けて帝を悩ませた玉藻前(たまものまえ)という妖怪の執心が凝り固まったものだと教える。女は、実は自分こそその執心だと言うと、石の陰に姿を消す。玄翁が殺生石に引導を授けると、石は二つに割れて中から狐の姿をした妖怪(後シテ)が姿をあらわし、朝廷の追討を受けて命を落とした過去を物語り、玄翁の弔いに回心したことを告げ、消え去ってゆく

 

この曳山は能楽「殺生石」より名付けられたものだが、人形やからくりの所作から玄翁山・狐山とも呼ばれている。

 

からくりは手前右手に法子(ほっす)を持ち、法衣をまとった玄翁和尚が立っている。その左奥に殺生石山があり、岩の中に玉藻前がひそんでいる。和尚が法子をあげると、法力により殺生石山の岩が二つに割れ、玉藻前の優美な女官で出てくる。舞扇を口元にあてがい、下ろすと玉藻前の顔は狐に変っている。そして狐が扇で顔を隠し、扇を下に下ろすと顔が玉藻前に変るというものだ。

 

曳山の中央にある大岩の中で変身するので、少し注意して見ていただきたい所望だ。

 

参照:演能団体「銕仙会」HPより

http://www.tessen.org/about

(写真:河合哲雄)

 


     紫式部と回る人形たち
     紫式部と回る人形たち

源氏山(げんじやま) 中京町

 

平安時代中期の文学作品『源氏物語』は、よく知られた長編物語で、紫式部が石山寺(滋賀県大津市)で想を練り書いたと伝えられている。『源氏物語』の魅力は、なんと言っても女性の視点で、光源氏が繰り広げる恋愛模様や人間関係における心理を、繊細かつ優艶に描き出したところだと言われている。

 

この源氏山は別名紫式部山と呼ばれ、この『源氏物語』にちなんだもので、紫式部の十二単衣(じゅうにひとえ)や、曳山全体の構造など、平安の昔を偲ばせる造りとなっている。

 

からくりは観月台を模した和様高欄の上に座った紫式部が、源氏物語の構想を練る様子を表しており、右手で筆を動かし左手で巻紙を開いている。

 

床下の前面に作り物の岩山がある。両端に岩戸があり開くと、時代装束そのままの汐汲男女各一体、帆掛け船に乗った船頭、御所車を牛が曳き、従者二体、傘持ち沓持ち各一体の計七体の風俗人形がまわり舞台の如くゆっくり回転する。

 

また岩山の中段に水車小屋や竈と松の立木が、その場で現れ出たり、下に消えたりして岩の中に消えて行く。その様子に私は思わずニンマリとする。

 

このからくりは、歌舞伎の回り舞台が考案されるよりも半世紀も前に完成しており、そのユニークな発想が注目されている。また、このからくりは享保三年(1718)初代林孫之進の作で、現存するものとしては全国でもかなり古いという。もちろん、この間幾度も補修されたであろうと想像される。

 

また、この回転風俗舞台は囃子方の子供が、下にしゃがんで所望囃子に合わせて直接手で回しているのだが、それら舞台裏の苦労に拍手をおくりたいと思う。

(写真:河合哲雄)


    見せ場のシーン「方向転換」
    見せ場のシーン「方向転換」

郭巨山(下小唐崎町・後在家町)

 

郭巨山(かつきょ)は別名釜堀山(かまほり)と呼ばれ、中国24孝説話(にじゅうしこう=孝行に優れた24人)に登場する郭巨の物語にちなんだ曳山である。

 

その話のイメージがわかない私は、福岡市博物館コレクション所蔵の「24孝図屏風」(伝・狩野永徳)をネット画像で拝見。この屏風は1扇に1話ずつ、合計12の故事が描かれている。その屏風の左側手前には手に鍬を持つ男、両手で子供を抱きかかえる女。そのふたりの視線の先には、土中から黄金の釜が半分出ている情景が。「ああ、こんな感じね」と納得。

 

母・妻・子と共に暮らしていた郭巨は、貧困のため孫に自分の食べ物を与えようとする母の姿に悩む。そして「子供はまた授かることもできるが、母を授かることはできない」として、苦渋の決断で子を穴に埋めようと決意する。その穴を掘っている時、なんと地中から黄金の釜が出てくる。その釜には「天が、孝行な郭巨にこれを与える」と書いてあったという。それ以来、郭巨は家族を大事に養った、というお話だ。

 

曳山の2層正面右手前に子供を抱いた郭巨の妻が立っている。中央には地面に見立てた岩が置かれていて、その奥に鍬を持つ郭巨が立っている。妻は子供をあやすような仕掛けとなっており、所望の囃子で郭巨が鍬をあげて地面におろして掘ると、岩の一部が回転し黄金の釜が出現する仕組みだ。

 

「孝」は儒家の倫理思想の核心であり、長い間中国社会で家庭関係を維持するための道徳基準であったという。私は大津祭がそうした伝統的な美徳を、多くの人々が知るきっかけとなるに違いないと思う。(写真:河合哲雄)


      滝を昇る金色の鯉
      滝を昇る金色の鯉

龍門滝山(太間町)

 

太間町の曳山・龍門滝山は享保二年(1717)に創建され、別名鯉滝山ともよばれている。古代中国の「急流の滝を登りきる鯉は、登竜門をくぐり、天まで昇って龍になる」という 登竜門の故事にならいこの名が付けられた。

 

登竜門(とうりゅうもん)は立身出世のための関門や、人生の岐路となるような大事なな試験をいうが、掛け軸などで見る「鯉の滝昇り(滝登り)」は、立身出世祈願としてなじみの深い図柄でもある。

 

さて、鯉の滝昇りのからくりは、曳山全体で龍門山を模し、鯉の仕掛けと曳山の二層の上に据えられた、滝の仕掛けとによってできている。曳山二層の上床の主座の前に、滝の大道具が垂直に立っている。

 

一尾の鯉が滝の中央を下からせりあがってくる。滝を半ば昇ったところから、尾と鰭(ひれ)を左右に交互に動かしながら、滝を懸命に昇ろうとする。昇り切ったところで、突然鯉に翼が生える。翼を広げた鯉は昇天したかのように消えてしまう。

 

曳山の天井には一面雲を模した彫刻がほどこしてあり天を象徴している。つまり龍門山の滝はどんな魚も昇れないが、もし昇りきった鯉は化身して、竜となり雲にのるというのだ。「ああ、そういう訳か」。

 

まもなく端午の節句(5月5日)。青空に泳ぐあの鯉のぼりには「子供に立派になって欲しい」との願いや意味がこめられている。ここにも登竜門の故事が生きている。

(写真:河合哲雄)


     巡行する神功皇后山
     巡行する神功皇后山

神功皇后山(猟師町)

 

滋賀県内で安産の神様として私が認識するのは、ひとつは永源寺(東近江市)の観音像で、俗に“世継ぎ観音”とも呼ばれ信仰を集めています。そして鬼子母神像が祀られている三井寺さんでしょうか。

 

今回紹介する神功皇后山(じんぐうこうごうやま)は、安産の神様として知られる神功皇后と、皇后を助けて新羅征伐を成功させた重臣の竹内宿弥(タケノウチノスクネ)の二体のからくりが飾られています。この山を所有する町内では、祭礼終了後も会所の二階の神殿に人形を安置しているため、神様を祀っている場の二階はいつも掃除をして清浄にしているといいます。

 

この山では向かって右に鎧をつけて背に白矢と弓を背負った神功皇后、左には鎧をつけて腰をおろした側近の武将竹内宿弥の人形があります。そして中央奥には大岩の作りがあって小滝が注いでいます。

 

所望では囃子にあわせて、皇后が左手に持った弓を右手でささえ、体を岩の方向に向け弓の先で、岩の長上に「三」の字を書くと、岩に黄金色のかがやく「三」の文字が現れてきます。このようにして、岩の中に仕組まれた7本のひもを引くことにより、「三韓之王者」という五つの金文字が、次々と岩上に現れる仕掛けになっています。

 

巡行する曳山に神様を飾ることもそうですが、「皇后と竹内宿弥」「新羅征伐」「三韓之王者」というキーワードにも興味を持ちますね。これらについては別途ブログで紹介したいと思います。

(写真:河合哲雄)


    えびすさんのユーモラスな顔
    えびすさんのユーモラスな顔

西宮蛭子山(白玉町)

 

「 商売繁昌で笹もってこい!」「えびすさん今年も頼むで~」。そんなかけ声が聞こえてくる日本各地のえびす信仰風景。特に西宮神社の十日えびすがよく知られているようだ。

 

白玉町内では古くから毎年えびす様を出して飾り、盛大に祀っていたと伝承されているが、後に曳山にのせ所望に答えるようになった。そうした背景もあり、この山は万治元年(1658)の創建当時には宇治橋姫山と呼ばれていたが、延宝3年(1675)に西宮蛭子山に替えられたという。

 

さて、所望の場面だがこのえびす様が釣り竿を持って、泳いでいる二匹の鯛を狙って竿を左右に動かす。ついにお囃子に合わせてタイミングよく釣り上げる。さらにそれを従者の太郎冠者の持つ魚篭の中へ巧妙に入れるのだが、この仕草が大ぶりで華やかであることから、観客に人気があるようだ。別名「鯛釣山」と呼ばれる所以だ。

 

山の前方に波形の板を立て、その後ろで演者が手に持つ鯛が泳ぎ回る。釣り竿の糸が鯛の口にきた時くわえさせ、そして引き上げる。あたかも活きた鯛が釣れたように見せるところが芸だ。この絶妙な間合いには、随分な習練が必要と思われる。うまい。

 

また、宮大工の関与が大きいと伝承される、曳山の屋根の作りにも特色がある。小屋梁兼桔木(はねぎ)、小屋束、母屋桁(おもやげた)などと軒周りの各部材とを組み立てていく構造だ。つまり大体社寺建築の屋根構造に準じる仕様だ。

 

こうした町衆の深い意気込みに注目して鑑賞するのも興味深い。


      四体のからくり人形
      四体のからくり人形

「神楽山(三輪山)」(堅田町)

 

宵宮当日の夕方。それぞれの曳山町では、提灯に照らされた曳山から、賑やかな囃子が鳴り響き、大津市の中心部は祭りムードに染まる。そんな賑わいから離れて、堅田町では通りを歩く人々を神楽山(三輪山)の人形たちが、屏風を背に静かに見守っている。

 

この神楽山は三輪明神を祀っていたため、最初は三輪山と呼ばれていた。創建は寛永14年(1637)で西行桜狸山(鍛冶屋町)に次いで古い。亨保9年(1724)に改造され神楽山と呼ばれるようになった。

 

曳山には市殿、祢宜、飛屋、三輪明神(巫女)の四体の人形を飾って、祢宜が太鼓を、飛屋は鉦を叩き、市殿は鈴を上下に振りながら神楽を舞う所作を行っていたという。だが、この曳山は安政5年(1858)の巡行を最後に引退する。

 

現在の祭礼については、宵宮になると堅田町自治会の会員や自治会長などが、表通りに面した場所に人形や見送り幕・胴幕の飾りつけを行っている。

 

この四体の人形はいずれもからくりになっていて、かつては曳山の上で動かしていたものだけに、飾る人形の様態に私は少し寂しげに感じる。


    飾られた布袋さんと唐子
    飾られた布袋さんと唐子

ねりもの「布袋」(新町)

 

師走。ことしも残り僅かとなりました。お正月には新年の幸福を願って縁起の良いものを求めたくなります。年賀状などにも宝船に乗った七福神が描かれます。また、正月の風習の七福神巡りもそうです。そこで今回は趣向を変えて、七福神のひとつである「布袋」を紹介しましょう。

 

大津祭の宵宮飾りにねりもの*「布袋さん」がでる新町。巧妙なからくりや華麗な装飾品を備えた曳山にくらべると派手さはありません。この張り子の「布袋さん」が初めて史料に出てくるのは1693年(元禄6)です。それによれば17町からねりものが出たとあります。

 

その後、文化年間(1804~18)に入って減少し、同12年(1815)には花(坂本町)だけが巡行し、明治5年(1872)からねりものの巡行は見られなくなったといいます。すべての曳山が練り物から発展したわけではないですが、これらの歴史に想いを抱きながら「布袋さん」を見学するのも良いですね。

 

宵宮飾りの画像でもうかがえますが、耳たぶの大きな笑顔の「布袋さん」は、胴体の右手に唐うちわ、左手に金色の玉を持ちます。その前にはお飾りやお供えが並び、小さな唐子(立人形)もいます。巡行時はこの張り子を頭からかぶり、胸毛部分の穴が蚊帳地になっているので、内側からは外部がよく見える仕組みです。う~ん。そうだったのか。

 

「布袋さん」は大津祭の歴史そのものであり、町内の福の神として信仰厚い町民によって長く伝承されてきた貴重なものです。また、練り物としては下百石町の神輿も練り物の一つとされていることも加えておきたいと思います。

 

 

*練り物(ねりもの)とは神興などを中心とした祭礼行列。練り物を奉納する際や、観衆へ披露するのに動かす様子のことを練るという。<goo Wikipedia (ウィキペディア)より>

 

また、都市祭礼における練り物は一種の仮装行列のようなものであったと考えられます。

 


    屋根の上で日和見する狸
    屋根の上で日和見する狸

西行桜狸山(鍛冶屋町)

 

屋根の上で狸が日和見(ひよりみ)をしている姿が印象的な曳山。そして、曳山巡行で毎年先頭を行くのが、西行桜狸山(さいぎょうざくらたぬきやま)だ。くじ引きでの順番に左右されない、いわゆる「くじ取らず」の山だ。初めての祭見学者にとっては、「何故この山が?」と疑問に思われることだろう。

 

それはこの曳山が大津祭の元祖だからだ。その背景はこうだ。

 

伝承によると、むかし四宮神社(明治初年に天孫神社と改称)に神木と崇められる椎の大木があり、狸が住みついていた。狸は腹鼓を打っては神慮をなぐさめていた。ところがこの狸が年老いて死んでしまった。

 

そこで鍛冶屋町の塩売治兵衛(しおうりじへい)が四宮祭礼で、狸のお面をかぶって風流踊を踊ったのにはじまり、その後治兵衛を屋台に乗せて町中をかつぎ歩くようになる。慶長年間(1596~1611)のことだ。

 

元和八年(1622)には年老いた治兵衛の替わりに、からくりで腹鼓の狸を作り、屋台に乗せ町中を練り歩くようになる。そして寛永十二(1635)年からは二輪の曳山となり、寛永十五年(1638)には、現在のように三輪になったという歴史がある。

 

また、明暦二年(1656)にはからくりを腹鼓の狸から、能を題材にした西行桜(さいぎょうさくら)に替え現在にいたる。同時に狸の姿をこしらえて曳山の屋根に立たせた。

 

そのことから狸山が西行桜山となり、今日の大津祭の曳山の原型となったといわれている。そんな背景から「くじ取り式」には参加するがくじは取らない。なるほどそういう訳か。

 

ちなみに現在でも一般に天孫神社を「四ノ宮神社」と呼ぶが、この呼称には滋賀県の建部神社を一宮、日吉大社を二宮、多賀大社を三宮、天孫神社を四宮とする説もある。

 

尚、この山の所望の基となった能楽・西行桜については、「祭男の気まぐれ日記 能・西行桜とは」をご覧ください。(写真:河合哲雄)


   曳手に初参加の玉田遼河さん
   曳手に初参加の玉田遼河さん

初めて大津祭に参加して 

玉田遼河(龍谷大学社会学部コミュニティマネジメント学科1回生)

 

今年、宮城から大津に引っ越してきたばかりであり、せっかく大津に来たのだから、大津祭に参加したいと考え、ボランティアに申し込み、月宮殿山の曳手として大津祭に参加させていただいた。

 

身体全体を使って曳山を引いたり、掛け声を合わせたりしている中で、曳山の上で演奏する人たちと曳手全員が一体になった感覚をもった。曳山をひきながら、祭をただ見ているときとは全く違う景色を眺めながら、自分が祭の表舞台に立っていることや祭を盛り上げる役目を果たしていることを考えると、とてもすがすがしかった。その時の昂った気持ちは祭が終わった今でも忘れることができない。この気持ちになることができることが大津祭に関わる醍醐味なのだと分かった。

 

大津祭に曳手として参加させてもらって、地元住民の温かさ、祭りの熱気をじかに感じることができ、また、私自身が大津祭をとても楽しむことができた。たった一日であったが、とても贅沢な時間を過ごすことができた。来年も機会があればぜひ大津祭のボランティアに参加したいと思う。


     解体中の曳山(湯立山)
     解体中の曳山(湯立山)

蔵納め

 

10月10日の朝。昨日の本祭の賑やかさが、夢だったかの様に静かだ。巡行が終わって町へ帰った後、山の飾りや金具類を取り外した状態の山が、シートを被って会所前で駐車している。骨組みだけの2層の姿は、何かしら寂しい感じがする。

 

午前8時。解体が始まった。この作業を指揮する頭領、大工、そして数名の山方衆がてきぱきと動き、山はみるみるうちに解体されていく。町内の人はこれら山方衆の仕事を補助する程度で、すべては頭領に任せているのは、他の山町とも同じである。解体された玉(車輪),台枠、四隅の飾り柱、床板、天井板、屋根などが次々と山蔵へ収蔵される。

 

山の2層目以上の部材や飾りものなどは、会所からつき出た床(桟橋=サンバシと呼ぶ)を使って効率よく作業が行われる。サンバシは会所床下から、引き出し式になっていて、先端の下に2本の柱があり支えている。サンバシの上側に手すりが付けられている。この方式は月宮殿山独自のものだ。

 

それらの部材や飾りものは、来年組み立てる時に都合の良い様に収蔵される。傷みがあり補修の必要があるものは、山町の責任者に報告される。これらの作業を蔵納めという。午前12時。こうして全ての作業が終了した。

 

尚、今回、月宮殿山から取り外した装飾金具類、障屏、重要文化財の見送幕(レプリカ)などが、大津祭曳山展示館(大津市中央一丁目)に展示中なので観覧をお勧めしたい。


    電車通りを巡行する曳山
    電車通りを巡行する曳山

最高の祭に感動

 

大津祭がいよいよ幕開けだ。10月9日の午前7時過ぎ。小雨が降る中で月宮殿山(上京町)は出発準備中だった。曳山に必要最小限のビニールをかけ、からくり人形や太鼓、備品を積み込む。次第に雨はやみ、天孫神社(同市京町三丁目)に向けて出発する頃は、すっかり雨はあがっていた。「きょうはいけるな」。

 

午前9時過ぎ。天孫神社前に13基の曳山が勢ぞろいした。もう大勢の見物客が詰めかけて賑わっている。そして9時30分。天孫神社境内で「くじあらため」を終えた曳山から順に、街の中心部へ向けて巡行がスタートした。

 

沿道の見物客が見守る中、曳山は順調に進行する。軒先に御幣のかかった場所で、曳山はストップする。からくりを披露する「所望(しょうもん)」の場だ。演奏に合わせて人形が演じると歓声が一段と大きくなった。再び曳山が動き出した。「チマキほって~」。声のする方向にチマキが飛ぶ。両手を広げた群衆が一斉に動く。「キャーッ」。感動のシーンだ。

 

12時から13時45分。中央大通りに巡行を終えた曳山が集まった。まるでここは曳山展示会場だ。我々は近くの中央小学校体育館でお弁当とお茶をいただき休憩だ。ブルーシートの敷かれた床で、談笑し、仮眠をとり、あるいはスマホで電話をしながら、それぞれがくつろぐ。そして、再び午後の巡行に出発した。

 

16時過ぎ。国道161号線の電車通り。京阪浜大津駅から京阪三条方面に向かうこの場所は、連続した上り坂なので、曳き方にとっては心臓破りのコースだ。囃子方の演奏も速くなり、曳き方を煽る。不思議と演奏に元気をもらって曳く手に力がはいる。

 

しだいに日が暮れた。寺町通りの商店街を曳山が進む。笛や太鼓が一層強くなり沿道の人々も演奏に合わせて手拍子だ。この道は進行方向がやや下り坂なので、一方の曳き方は後ろ側から綱を引きブレーキ役となる。囃子方、山方、曳き方もこの頃にはすっかり疲労も感動も最高潮だ。

 

17時過ぎ。こうして随分と暗くなった道を、それぞれの曳山は「戻り山」を演奏しながら、出発地点へと向かった。曳山には提灯がともり、家々にも灯りがともる。目的地の会所の大きな提灯が見えて来た。「ああ、やっと帰れたぞ」。お互いに安堵の表情を見せ、最後の力を出して綱を曳いた。(写真:河合哲雄)

 


      練習の成果を披露
      練習の成果を披露

今夜は総囃子

 

曳山巡行は3つの構成員が協力して運行している。曳山に乗り込んで鉦、太鼓、笛を演奏している「囃子方」、進行方向を司る「山方」、そして2本の綱で曳山を曳く「曳き方」だ。

 

10月1日の夜。大津市内の各曳山町の会所で、「総囃子」が一斉に実施された。これは「囃子方」の日頃の練習成果を確認し、披露するものだ。この練習は「くじ取り式」が行われた9月16日の夜から始まっていて、この日はあちこちから「コンコンチキチン」と賑やかな音色が響き渡った。

 

今年の1番くじを引き当てた「月宮殿山」(上京町)では、これらの全曲披露の後、からくり人形の操作練習もあった。曳山の下からは絶対見ることのできない動きの秘密だ。「ああ、なるほど。そうやってるんだ」。私は大変得した気分で会所を後にした。


 一番を引き当てた柴田さん
 一番を引き当てた柴田さん

一番くじを引いた

 

10月9日に営まれる大津祭本祭。この曳山の巡行順を決める「くじ取り式」が9月16日、天孫神社(大津市京町三丁目)で行われた。毎年、くじ取らずで先導する「西行桜狸山(さいぎょうさくらたぬき山)」に続く、一番くじを引き当てるのはどの曳山か。注目される運命の日だ。

 

午前9時。各町の曳山責任者や天孫神社の氏子らが参列し、境内は緊張した空気に包まれて始まった。くじを引く順番を決める舞殿での「座くじ式」のあと、その順番にしたがって本殿にあがる。そして、かしわ手を打ち「本くじ」を手に取る。 全員が舞殿に戻ったあと、当番町の合図で一斉に手元のくじを開く。その結果、「月宮殿山」の柴田一郎さん(60)が一番を引き当てた。

 

後日、柴田一郎さんに話を聞いた。「代理としての参列ですか?」「そうです」。お話しによれば、 月宮会の役員から、病気入院した曳山責任者の代理で「くじ取り」を行うお話が出た。副会長のお名前は頂いているが、突然のお申し出にとても驚いた。「あまりに大きなお役目なので、避けられるものなら避けたい、そんな気持ちでしたね」(笑)

 

9月14日午後7時。天孫神社で関係者による「くじ取り式」のリハーサルが行われた。柴田さんは「決められた所作を手順通りに覚えるのに必死でした」(笑)

 

そして本番当日。来賓や多くの報道関係者の見守る中、「座くじ」を引いた。7番だった。いよいよ「本くじ」の順番がきた。 柴田さんはご神前に進む。「神様の前では、ものすごい重圧を感じドキドキでした」(笑)

 

代理出席した初めての大役。そして見事一番くじを引いた。こうして、昨年12番だった月宮殿山は、9年ぶりに巡行のトップを曳くこととなった。


   珍しい湧水のしかけ
   珍しい湧水のしかけ

孔明祈水山(こうめいきすいざん)中堀町

 

今回紹介する曳山・孔明祈水山(こうめいきすいざん)を所蔵する中堀町は、大津百町の町名由来によれば、「大津城の中堀(二の丸の堀)があったところ」と案内している。つまり、大津城が膳所へ移された後、堀が埋め立てられ町を開いたと考えられている場所だという。あくまでも伝承だが・・・。

 

さて、この曳山のからくりで、是非とも注目したいのは、祈水(きすい)を表現しているしかけだ。曳山前面の飾り物の松に隠れて見えにくいが、大小の歯車四つとカムを巧みに利用して、転把を右に回すと、水が湧き出る様に見えるものだ。これは日本でも他に類を見ないものだという。なぜ流水のしかけがあるのか。

 

孔明祈水山(または孔明山)とは、中国の三国時代の蜀の軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)の故事からその名をとったものである。

 

その話はこうだ。魏の曹操(そうそう)と戦った諸葛孔明は、流れる水を見て、「敵を押し流すほどの大水を我に給え」と水神に祈った。そして趙雲に命じて岩を鉾先で掘らせたところ、たちまち大水が出て大洪水となり、見事敵軍は押し流されてしまい大勝利となったという。しかし、実際には三国志にそのエピソードは見当たらない。

 

江戸時代に発行された当時のチラシには、「孔明南蛮を攻むるとき水に渇し趙雲に命じ土中を掘らしめて泉湧き出でし」とある。

 

からくり人形は中央の遣車に乗った孔明と、その左に鎧兜をつけた趙雲が鉾を構えて立っている。所望ではこの鉾を岩に突き刺すと、こんこんと水が湧き出す様が演出される。 さて、本祭で曳き方や山方が着用する法被の背には、白抜きでおおきく「孔」の一字が書かれ、全体のした半分には同じく「波」が図案化されている。この孔明祈水山の故事を知れば、なるほどと納得する。

(写真:河合哲雄)

 


   岩崎さんと道検分風景
   岩崎さんと道検分風景

本祭巡行前の道検分

 

8月11日(木)、全国的な猛暑日が続いている中、大津祭の曳山責任者会により1回目の道検分が行われた。調査するのは今年の当番町、副当番町の担当者、それに曳山連盟(警護役)を加えた計11名だ。

 

そこで今年の当番町(玉屋町)の岩崎博さん(59)に話を聞いた。生れてこの方、欠かさず大津祭に参加している岩崎さんは、豪快な雰囲気の人だ。関連する資料も事前に準備されていて、自然な流れで話しが進んだ。

 

「道検分の実施目的は何ですか?」「本祭巡行に支障がないように、高さや道路の凹凸をチェックします」。お話しによると、曳山巡行路において、空中の電線や伸びた街路樹の枝に引っかけたりしないように、高さのチェックが行なわれる。また、道路の凹凸が巡行に支障を来さないかのチェックも必要だ。

 

午前7時30分。天気は晴れ。本祭巡行のスタート地点である天孫神社正門前に集合。その後全ての巡行路を検尺車・検尺棒を使いながら歩いて点検。また、必要に応じて曳山の収納庫までの行路も点検に加えた。その結果、電線と地上において計37カ所の注意箇所が発見された。

 

今後に予定されている9月2日(金)の2回目の道検分では、関係業者(関西電力、NTT、ZTV、USEN等)立ち会いの上で、再び同じコースを歩き、発見された注意箇所の是正について、業者間の役割分担が行われることになる。

 

9月24日(土)の3回目の道検分では、これらの是正箇所を曳山責者会で点検し、改修状況の確認が行われる。さらに本祭巡行の直前10月5日(水)に4回目の点検を行い最終確認となる。

 

10月8日(土)の宵宮曳き・宵宮、10月9日(日)の本祭は、こうした事前のチェックが実施されることによって、安心・安全が担保されることとなる。

 

「面白い話がございますか?」「あまり大きな声では言えないけど・・・(笑)」。過去に実施された道検分で、高さ制限に引っかかる注意箇所が発見された。それも最終確認の時なので、早急な改修が必要となった。ところが、この問題のケーブルを引いたのが、なんと調査担当者本人の宅だったというオチまでついていたという。

 

こうして時折笑いもある中で、取材は楽しく終えることができた。


    背中の「湯」が格好いい
    背中の「湯」が格好いい

湯立山(ゆたてやま) 玉屋町

 

大津祭の際、湯立山を巡行するのが玉屋町だ。まず私はこの町名に興味があった。聞くと大津築城に伴い鉄砲玉の製造所が置かれたことに由来するという。つぎにこの山では、からくりが終わった後に、曳山の上から囃子方によって紙吹雪がまかれるのだが、それが疑問だった。「あれは何だろう」。ほかの山では見られない光景だ。

 

釜で湯を煮えたぎらせて、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣を願う伝統的な神事を湯立神楽(ゆたてかぐら)というが、天孫神社の湯立ての神事を表現したのがこの山だ。なるほど、天孫神社の拝殿風の入母屋型の屋根や、周りの様式が天孫神社の回廊を模しているのも頷ける。そして、紙吹雪はお湯を表現しているという訳だ。

 

からくりは、曳山の右手前の祢宜(ねぎ)が最初にお祓いをする。つぎに中央奥の巫女(みこ)が笹の葉を上下に振り、釜で湯をたてる身振りをしている横で、左側の飛屋(ひや)が首を左右に振りながら鉦を打ち、天孫神社に湯を奉る神楽を舞う。こうしたからくりの仕草や太鼓の音にちなんで、「おちゃんぼ山」「ドンブク山」とも呼ばれている。

 

ただ、この三体の人形の身振りの動きは、他の曳山と異なり「からくり操作」ではなく「あやつり操作」だ。からくりは機構をもつ仕掛けであるのに対し、あやつりは人形を手でもって演ずることだ。操者は見えないようにして綱を使って動かしている。史的には「あやつり」は「からくり」の前期に属する。

 

寛文3年(1663)に創建されたこの湯立山だが、それ以前に「孟宗山」(もうそう)という曳山があった。それに替わる湯立山が作られたことから、高島郡高島町(現高島市)の方に譲ったという。私はこの山の行方も大変気になっている。ただし、この話はあくまでも地元の伝承(都市伝説的)であることを明記しておきたい。(写真:河合哲雄)


     お店の正面と店主
     お店の正面と店主

祭と地元の活性化を模索

 

7月の初めにお訪ねした「御饅頭処・餅兵(もちひょう)」は、約260年の歴史ある和菓子の老舗。現在の店主・梅村眞司さん(49)は8代目という。江戸時代(宝歴年間)に初代がお餅を提供したのが同店の始まりだ。

インタビューの始まりに出された和菓子「うぐいす水無月」と、冷たいお茶をいただきながらお話しを聞いた。

 

「この和菓子も店主が開発されたのですか?」「そうです」。透明な四角なお皿に和菓子、そして緑の小葉が添えてある。青エンドウの実をすりつぶしたきな粉をういろうに練り込んだ水無月は、涼を感じさせる夏の和菓子に仕上がっている。

 

お話しを伺っている間にも来客があるので、店主と奥様が対応。訪問時間が午後の夕方近くだったせいもあり、ショーケースには商品も少なくなっていた。

 

さて、老舗における商品の開発においては、「あるようで無いもの」がキーワードのようだ。同業他社の類似品の研究も欠かせない。和菓子という商品の枠組みも幾らか広くはなってきているが、自分の好みだけを重視するのはもちろんダメ。あまり突飛な商品もNGだ。

 

試作品は常連さんに試食していただき感想を拝聴する。それぞれの好みもあるので、独自の経験と感性が生きることになる。また、奥様のご意見も重要なポイントになる様だ。

 

「ご商売上でのエピソードにはどんなものが?」「いろいろあります(笑)」。

例えば春先の和菓子では縁起ものの紅白饅頭。幼稚園などの入園式、卒園式では欠かせないアイテムだ。仕込み(材料を炊く、蒸す、混ぜる、練るなど)の作業があり、全てが手造りとなるため、少数ならいざ知らず数百個単位の注文となると大変だ。

 

生ものなので長期保存がきかない。納期との格闘で徹夜の作業となる。この商売を継いだ当初はさすがに疲労困憊し、家業の大変さを実感したそうだ。こうした春夏秋冬の繁忙と閑散のサイクルを繰り返した後、次第に新製品開発の余裕も生まれてきた。

 

最後に大津祭との関わりについて聞いた。そもそもこのお店が曳山町に立地するため、幼い頃から大津祭とは縁が深い。「観光客で賑わうのが当日だけで終わってしまうなら残念ですよね」「お客様が地元にお金を落としてくださる仕組みが大事です」「祭と地元の繁栄や活性化は車の両輪の関係であるべきです」。

 

ご商売をなさっていることもあり、祭の維持管理費用の捻出の大変さや、祭の経済的効果など、その語り口がとても情熱的な印象であった。「研究熱心な方ですよ」。梅村さんを良く知る人の評価だ。


     巡航する西王母山
     巡航する西王母山

西王母山(せいおうぼざん) 丸屋町

 

丸屋町商店街の一角に「大津祭曳山展示館」があります。この展示館には原寸大の西王母山が再現されています。ここを訪問した客はその曳山の大きさに驚き、そして桃の木に実った桃から出現する唐子衣装の童子を見て「お~っ」と感動します。

 

さて、今回ご紹介する西王母山は丸屋町の曳山です。この山は別名「桃山」とも呼ばれています。日本に伝わる桃太郎の話はいくつかあり、広く知られた話では桃が割れて、中からかわいい男の子が生まれてくるシーンがあります。まさにその場面を再現した様なからくりの動きです。

 

西王母山の特徴には、他の曳き山の屋根部分がこけら葺きや、木賊葺き(とくさ)なのに、こちらは瓦葺きを表現していることです。また、屋根には大きな飛龍が飾られています。本祭日用見送り幕の中央には、大きな正面向きの竜、下部には波間から昇天しようとする二頭の小竜と岩や青海波(せいがいは)が織出されています。また、別に宵宮用の見送り幕もあります。

 

さて、からくりですが上手屋形柱のそばに東方朔(とうほうさく)が、中央奥の台に西王母が気高く控えています。下手屋形柱の内側に桃の大樹があり、大桃が実っていて水平に突き出た太い幹の根元にある大桃が二つに割れて、中から唐子衣装(からこいしょう)の童子が軍配を持って出てくる仕組みです。

 

尚、この曳山の名称の由来である西王母と桃の関係性については、祭男の気まぐれ日記「能・西王母とは」をご覧ください。(写真:河合哲雄)


     お店の正面と店主
     お店の正面と店主

囃子方責任者として活躍

 

6月7日の午前中。私はJR大津駅から「花屋・アミテイ」へ電話をかけた。すると「はい。いま居ります」と元気な返事が聞こえた。小雨の降る中を私は約束の場所へ向かった。

 

上京町月宮会会所(大津市京町1丁目)の町家に、西村英祐さん(46)の経営する花屋さんがある。私には大津祭の曳山「月宮殿山」で馴染みの場所だ。

 

「お店はいつ創業されたのですか」「20年ほど前ですね」。そもそも家業が花屋さんだった訳でもなく、生花販売業に関する特別な技術があった訳でもないという。「全くのゼロからのスタートでしたね」。ただ、このお店の正面にあたる場所が、親戚だったので、ここら辺では良く遊んでいて、大津祭りも良く知っていたという。

 

小学生低学年のころ友達が曳山に乗り鉦をたたいていた。元来賑やかで楽しいことが好きな西村さん。自分もやってみたいと思ったものの、上京町の住民でないため乗ることができない。「囃子方として鉦や太鼓をやりたい」。気持ちはつのる一方だった。

 

そんな西村さんは曳山のサポート役で台車を押したり、ちまきを山の下でまいたりして祭りに参加。その後縁あって囃子方の練習に参加できる様になり、練習も人一倍こなした。そして努力が実を結び念願の曳山に乗る。10年ほど前のことだ。

 

今では囃子方責任者として活躍する西村さんだ。なのでこれまでの様に「楽しむ」だけではなく、これからの祭のあり方について模索中だという。また、自分のお子さん(5)も祭に参加するようになった。大の太鼓好きだそう。西村さんが笑顔になった瞬間だ。

 

「親としてどんなお気持ちですか」「そりゃ嬉しいですよ。けど練習はつらい時もありますからね」。自分が小さい頃できなかった体験を、いまお子さんが始めている。将来的には囃子方として、次の世代に継いで欲しい期待もある。

 

本来は9月中旬から始まる囃子方の練習だが、月宮会では数年前から、前倒しで月に一度の月例練習をする様になった。「見学にきてください」。西村さんはそう私に声かけをしてくれた。


大津祭りファン倶楽部
   巡行する月宮殿山

月宮殿山(げっきゅうでんざん) 上京町

 

1昨年(2014年)の宵宮。この山では見物客が自由に鉦や太鼓を体験できるコーナーが設けられ、囃子方の曲に合わせて一緒に演奏する姿が見られました。こうした試みは、祭りを「より近くに感じられる」と好評でしたが、今年の宵宮ではどうでしょうか。

 

さて、別名鶴亀山と呼ばれるこの山は、安永5年(1776年)に作られました。当時の出来事で言いますと、江戸時代の平賀源内がエレキテルを完成したころになります。現存する曳山群の中では最も新しく、当初「鳳凰台山」と呼ばれ、その後「月宮殿山」に替わっています。名称の由来については、「祭男の気まぐれ日記」をご覧ください。

 

この山の最大のみどころは、国の重要文化財に指定された見送幕です。これは大津祭の曳山13基の中でもずば抜けた逸品だそうです。ただ、現物は大切に保管されており、現在お祭りで懸装しているのはレプリカです。また、京都の祇園祭りの「白楽天山」の前懸とともに、1枚の毛綴織壁掛けの一部であることも判明しています。

 

この幕は京都三井本店所蔵の一部を購入した毛綴織(けつづれおり)で、16世紀のベルギーのブリュッセルで織られたものです。このデザインの絵は「トロイ陥落図」と呼ばれ、ギリシャ神話に出てくるトロイア(トロイ)戦争で、勇士「アイネイアス」が、イーリオス城が陥落する際に、父を背負って逃げていく様子を描いているという説もあります。

 

からくりは唐(中国)の皇帝の前で、鶴の冠をつけた女の舞子と、亀の冠をつけた男の舞子が囃子に合わせて楽曲・鶴亀を舞います。(写真:河合哲雄)


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    唐獅子の寸法回説図

唐獅子の設計図を発見

 

石橋山は曳山の中でも獅子の出る山として、人気があるのではないかと思います。格好が可愛らしいうえに、後ろ足をあげて跳ね回るところがユーモラスですね。

 

この獅子について調べてみようと、図書館の郷土資料コーナーへ行くと、「大津祭総合調査報告書・11石橋山」(滋賀民俗学会 昭和51年刊)がありました。資料をパラパラとめくると、石橋山の構造と建築的装飾、飾り金具・彫刻・見送り、そして山建ての工程などが多くの写真で紹介されていました。加えて獅子の設計図が目にはいりました。ついに発見。「やったぜ」。

 

正確には寸法解説図なのですが、獅子の動く仕組みが詳しく解説してあります。資料によれば、この獅子は、寛延元年(1748年)の制作といいますから、270年ほど経過しています。ですから現在の獅子は、過去にも数回修理もされてはいますが、創建当初の動きではない様です。

 

この獅子と同様なからくりには、名古屋東照宮に属する中市場町・石橋車の唐獅子と唐子人形あったのですが、戦災で消滅したそうです。そのため、大津の獅子が日本で現存する、唯一のものだといいます。

 

また獅子が牡丹に戯れる位置は、当初はもっと長く(約1m)あり、創建時の旧態を残す部分は、獅子の台とターンテーブルのみだそうです。

 

こうした曳山のこぼれ話を、これからも紹介していきたいと思います。


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    巡行する石橋山

石橋山(しゃっきょうざん) 湊町(みなとまち)

 

京阪電車の浜大津駅界隈が湊町です。湊は港とも書きますが、湖上海運の盛んな町としての面影がうかがえます。この曳山は石橋山(しゃっきょう)または、別名唐獅子山(からしし)とも呼ばれますが、その名は能楽の石橋に由来しているそうです。詳しい説明はブログに譲ります。

 

この山の「からくり人形」は、曳き山の中央の大きな岩が天台山を表現しており、その中から唐獅子が現れて動きまわります。その様はユーモラスでもあります。そして、舞いが終わると獅子は再び大岩に向かって進み、中に隠れてしまいます。どの山にも共通しますが、「からくり人形」には背景があり、製作者の意図があります。なので観客側も事前にそれを知っておくことで、さらに興味がわく様に思います。

 

この山のみどころですが、山の屋根部分あたりの懸魚(げぎょ)が、見事な金色の「牡丹彫刻」になっている点でしょうか。前柱には牡丹の花やつぼみが表現され、蝶々が舞っています。また、金色の飾り金具が柱に装着されています。

 

見送り幕の図は王への貢進図で、17世紀フランドル地方(現在のベルギーなど)で製造されたものと考えられています。                         (写真:HP「琵琶湖の桜並木」より)

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このHPでは曳き山を順次紹介してゆきます。お楽しみに。

 

   (参考資料「曳山とからくり 大津祭」大津祭曳山責任者会、「大津祭ご紹介」大津曳山連盟 説明会用パンフ)


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     長柄衆の城田義隆さん

私がご案内します

 

「こんにちは」。

初めてお目にかかった城田義隆さん(39)は元気のいい方だ。ここは丸屋町商店街にある曳山展示館。大津曳山連盟の紹介で、快くこのHP登場にお返事をくださいました。

 

・お祭当時はどんな役割を 「観光ガイドですね。かれこれ7年になります」・どんなきっかけで 「この大津市に引っ越してきたんです。そこでこの祭りを見て何か私にもできる事はないかと」・所属してる長柄衆(ながえしゅう)ってなに 「祭のサポート部隊ですよ。観光ガイドだけじゃなく、沿道での安全管理など何でもやります」(笑)

・観光ガイドやってて思うことは 「そうですね。皆さん遠方からいらっしゃるんです。大阪など関西方面や関東など」「ご説明しようとすると、祭りのことを詳しくご存じな方もいらっしゃるんです。中には私も顔負けの方も」(笑)「この祭りってみんなで楽しく盛り上げてる感じが強いんですよね。なのでこっちも元気になれます」  

 

「私が案内します」。そんな言葉がぴったりな城田さんでした。  

 

大津まちなか大学では、見て、聴いて、体験する受講生を募集しています。大津祭を体験学習を通して学ぶ講座だそうです。どなたでも聴講できます。応募締切りは2016年5月15日まで。


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      整備中の信号灯

                           回転する信号灯

 

大津祭りの曳き山巡航中には、道路の信号灯が進行の邪魔になる場合があります。このままでは曳き山先端が当たってしまいます。そんな時、待機したスタッフが手元の綱を要領良く引いて、クルリと回転させます。すると、曳き山は進行を遅らせることなく前進します。

 

「こうした仕組みは独特ですね」。作業中のスタッフが笑顔で教えてくれました。祭はこうした裏方さん達の協力なしでは実現できません。今年のお祭見学の時は、この回転する信号灯も見見逃せません。


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     綱曳きボランテアの皆さん

 

 定年もある綱曳きボランテイア

 

一般から募集している綱曳きボランテアですが、このところ曳き方の高齢化が危惧されています。曳き山連盟では、各曳山町からのアンケート結果を踏まえ、3年後あたりを目途に上限年齢の制限を導入する方向で検討しています。既に新規募集にあたっては60歳までとしています。

 

大津祭では綱曳き以外でも、多くのボランテアの方々が活動しています。例えば案内所や有料観覧席、沿道の安全管理、観光客のご案内など総勢200人以上にもなります。そこで、連盟では曳き方を引退した方々には、今後そういったお手伝いにも参加していただけることを期待しています。