能「西行桜」とは

      花道を進む桜の精
      花道を進む桜の精

数年前の春に東海道本線・JR山崎駅で下車して近くの「大山崎山荘美術館」を尋ねました。その時「桜の名所だから、大原野方面まで足を伸ばそう」と提案する知人に対し、あまりにも交通の便が悪そうなので断念した記憶があります。

 

西行桜狸山の所望の基となった能楽「西行桜」は、この京都西山の大原野の桜に由来します。この地に草庵を結んだ西行法師は、平安末期の歌人でもあり多くの桜の歌を詠んでいます。中でも「花の寺」と呼ばれる勝持寺(しょうじじ)には、西行自らが植えて愛でたと伝わるしだれ桜があり、以来、「西行桜」として親しまれています。

 

それでは能楽師・殿田謙吉氏のHP(http://tonoda.blogspot.jp/)から、その舞のあらすじを参照します。原文のまま。

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あらすじ

 

■都の郊外・西山に清閑を楽しむ西行上人(ワキ)の庵りの春。

桜の名所で知られるここで、西行はひとり静かに花と対座しようと「今年は花見客を一切入れないように」と能力(アイ・下働きの僧)に命じます。

 

そんな庵主の心も知らず、花見見物に訪れた下京辺りに住む人々(ワキツレ)。能力は一度は断るが、花見人の熱心な望みに根負けした西行は、自らの禁を破って招き入れます。

 

■花の下に群れ居る人々を前に、西行は当惑。

「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の咎(とが)にはありける」(花を目当てに多くの人が訪れることだけは、惜しくも桜の罪であるな)と詠みます。

 

■やがて夜。庭に立つ桜の大樹から、先刻の歌を詠ずる声が響きます。

「憂き世と見るも 山と見るも ただその人の心にあり」(憂き世と見るのも、山と見るのも、それぞれの人の心の中にあることでしょう)「非情無心の草木の 花に憂き世の咎はあらじ」

(心を持たぬ草木に罪などない。苦しみの多いこの世を嫌って離れる=出家するあなた自身にこそ、その原因があるのだ)と述べて出現したのは、白髪の老人に身を変えた桜の精でした。この反論には、さすがの西行も恥じ入ります。

 

とはいうものの、老桜の精はこの歌を縁として西行に出会い、仏法に触れ得た喜びを述べ、都で知られた花の名所の数々を語り舞います。

 

老桜の精は、「過ぎ行く一瞬は再び帰らない。得がたき友との出逢いも、短い一生の間めったにはない」と説き、春の短夜に別れを告げ、曙の光の中に姿を消します。

 

夢醒めて後。風に散り庭一面に降り敷く、雪のような落花が残るばかりです。

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所望は、桜の精が曳山の左前古木より現れ、花道を進み出て奥にいる西行法師と和歌問答をする様を表現しています。