神功皇后と武内宿禰

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学習図鑑などによれば、大和朝廷では摂政の聖徳太子が隋(中国)との国交を開き、仏教を中心とした大陸の文化をとりいれて、天皇の地位を高める政治をしたころを「国のはじめ」として解説しています。

 

表題の人物が登場するのが古墳時代と呼ばれるこの時期なので、随分遠い昔の話となります。そのために伝説や事実が混在して伝えられていても不思議ではないかな、と私は思います。

 

三韓(さんかん)とは、1世紀から5世紀にかけての、朝鮮半島南部に存在した種族とその地域を指します。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といいました。

 

神功皇后が行ったとされる三韓征伐とは、新羅(しらぎ)出兵をさします。新羅が降伏した後、三韓の残りの二国・百済(くだら)、高句麗(こうくり)も相次いで日本の支配下に入ったとされるため、この名で呼ばれます。新羅征伐と言う場合もあります。神功皇后を支えた功労者が武内宿禰(たけうちのすくね)です。

 

神功皇后山(じんぐうこうごうやま)の所望で、「三韓之王者」という五つの金文字が、次々と岩上に現れますが、その理由が読み解けましたね。なるほどそうだったのか。

 

現在の和歌山市松原に、武内宿禰が生まれた時に産湯を使ったという「誕生井(たんじょうい)」が武内神社の境内に残っているそうです。

 

尚、文章表現の中で「朝鮮」「征伐」「日本の支配下」という言葉を使いましたが、決して特別な意図や思惑はありませんのでお断りしておきます。